空気までまどろんでいるような気持ちのいい午後。雲こそまばらにあるけれどよく晴れた空からの日差しは穏やかで眠気を誘う。
コーヒーでも片手に雑誌を見たり音楽を聴いたり、ソファーでのんびりしたいな。そんな誘惑と戦いながら、コーヒーの代わりに布団叩きを持って干した布団を裏返していると。



ふいに、大きな体が視界を塞いだ。見えていた世界がガラリと変わり少したじろぐ。だが、目の前にいるのは誰よりも愛しい男。
今まさに口をつけようとしたカップの代わりに唇がそっと触れた。呼吸することも忘れるくらい甘ったるい時間が流れる。どちらともなく離れたら、今度は目が合ったのが何だかおかしくて、自然に笑いがこぼれた。
カーテンが風に揺れている。春の訪れにはまだ速いけれど、窓が開いていても寒さなど感じない。何もなかったかのようにそれぞれの趣味に意識を移せば沈黙が落ちたが、会話はなくても、世界は確かに幸せだ。



あらあらあらあらら。


「…素敵」


はからずも目撃してしまった向かいの恋人たちの触れ合いに、ほぅ、とため息をつく。いやん、出歯亀しちゃったわ。
布団を反していた手を止め、頬ずえをつく。
幸せを絵に描いたような、温かな愛情が肌で感じられるような。香の憧れがそこにはあった。


「いいなぁ〜」
「おまー、なに覗きなんてやってんの」
「ひゃ!」


夢見る乙女の世界に入りこんだ不粋な発言に飛び上がる。あ、あぶな!布団叩きを落とすところよ!?


「りょ、あんた、いつからいたの!?」
「ん〜、香ちゃんが覗き始めたあたりから?」


なんつー人聞きの悪いことを、コイツは…!


「ベランダ出たらたまたま目に入っちゃっただけよッ」
「そのわりにはじっくり鑑賞してたなぁ」


鬼の首をとったように楽しげに言葉攻めしてくる男を真っ赤な顔で睨めつけ、布団叩きはどこへやら、代わりに出現したハンマーをちらつかせる。


「自分のこと棚に上げてよくもまぁそんなこと言えるわね?」


両手で振りかぶって見せればとたんに目を白黒させて哀願する情けない僚の姿に、馬鹿馬鹿しさを通りこして悲しくなってくる。
向かいはああなのに何でうちはこうなのよ。
ハンマーを食らわす気も失せて、ベランダから室内へ、ソファーにうつぶせに倒れこんだ。脳裏に浮かぶのはキスシーン。


「あああ。羨まし過ぎる」


みっともないと言われようが、あさましいと言われようが、それが本音だった。


「…そんなにミックとキスしたいのか?」

―バコンッ!!!

放り出したはずのハンマーで脳天を叩き割る。な、ん、で、そうなるのよこの馬鹿男!
あまりのことに思わず涙ぐみながら叫んだ。


「馬っ鹿じゃないの!なんでミックとキスしなきゃいけないの!?あたしは、あたしだって、あんたと…!!!」


うううう、と後は唸り声しか出なかった。あたしだって、あんたとあんな風に過ごしたいのよ。
平和な午後が台無しだ。すっかりガタガタになってしまった空気が重く、香をうつむかせる。沈黙が耳に痛い。耳に…ん?何か耳に触った?と思うより先に、


「香」


突然、視界いっぱいに僚の顔が表れた。顎から頬にかけて触れた大きな手のひらが香の顔を上向かせている。いつの間にこんなに接近していたのか。本当に読めない男だ。
鼻と鼻が触れ合いそうな距離まで近づき、強い目の光に頭がくらくらする。残された距離はごく僅かだから身動きひとつできない。


「おまー、俺とキスしたいの?」


口調だけはふざけているが、目が笑っていない。


「いいのか?」


香が最後まで言わなかったことは僚にしっかり伝わっていた。同様に、何をしていいのかをはっきり言わない抽象的な僚の言葉の意味が、香にはよくわかる。だから答えられない。
わななくことしかできない香を見て、僚の瞳がかすかに微笑む。


「いやか?」


それは違う!どれだけ焦がれたことか!
ここだけは意志表示しなければとかすかに首を横に振れば、額が擦れ合った。それほど近づいていると自覚させられる。
耳元で心臓の音がうるさい。


「…香」


名前呼ばないで!も、限界なんだから!!
いっそのことこの距離をゼロにしてしまおうか。ああああ。


「このままキスしたら、最後までいってしまいそうなんだが」


ビクリと肩が上がる。勢いにまかせて動こうとした身体が完全に凍りついた。え、カミングアウト?何の?
ギリギリの体勢のまま、しみじみと僚は語る。


「最近もっこりはご無沙汰気味だったからなあ。手加減、無理だなー。あんなことやこんなことだけじゃなくて、そ〜んなことまでしないとまず満足出来ないし、下手したら完徹どころか何日間かぶっ通しになるかもしれん…。あ、俺はやると言えばやるタイプだから。しかも絶倫だから休憩なしだし、ううん、そうだな。探求心も旺盛だから、道具も使いたいし?まぁそんだけじっくりやりゃあ、俺のにも慣れるだろうけど、ま、当分動けんだろうなあ俺じゃないよお前がね?そういえばゴム切らしてるんだよな。好みで言えば生がいいけど安全のためにはつけるのが」

―ドゴン!!!!

冴羽アパートが、揺れた。


「…いっぺん、死んでこい」


そうよ僚はこういうヤツなのよデリカシー皆無の変態もっこり野郎空気読め!!淡い夢を抱いたあたしが馬鹿だったわ本当にもう!
力の限り叩きつけた特大ハンマーが煙を上げている。明日はきっと筋肉痛だ。



少しずつ西に傾いている太陽は、地上の騒ぎなど我関せずといった感で相変わらず燃え盛り、麗らかな陽気はすぐに乱れた空気を修復する。辺りは再び欠伸が出るほどの平和な雰囲気を取り戻す。

それでも、僚の復活にはまだまだ時間がかかりそうだった。










*****
(タイトル参考:椎名林檎/ここでキスして)
覗かれたうえに「なんでミックと云々」言われ、ミック、いい迷惑。笑

 

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