side AH
こいのうたの別視点です。




時は流れるものだという、当たり前過ぎるほど当たり前な事実が、今の僚には理解できない。
喉が渇けば水を飲み、空腹を感じれば食物を口にする。睡眠、排泄、呼吸、血液の循環。
惰性で生の営みを重ねても、「生きる」ことが何かわからない。
今や時間は意味を無くしてしまった。
時間も、場所も、自分が動いているのか止まっているのかすら、どうでもいい。
ただ暗がりだけが広がっている。


(…)

(…!)

(僚!!!)


突然、僚の暗闇に光が差した。
耳をかすめた声に振り向き足を止め、はじめて自分が歩いていたことを知る。
瞬間。

―キキィーッ!!!

耳をつんざくブレーキ音が響いた。4WDの巨大なタイヤがわずか数センチの距離で停止している。
フロントガラスの向こう側で怒鳴る運転手の強ばった顔。
アスファルトと擦れたタイヤから立ち上る焦げ臭い煙。
なりやまないクラクション。
急速に世界が彩りを得て、鈍い思考回路がじわじわと状況を飲み込んだ。
もし、あと一歩を踏み出していたら。


「僚!あなた何やってるの!?」
「…あ?冴子?」


人波をかきわけて走りよった冴子の顔は、息があがっているにも関わらず白い。
そのまま固い表情でなじられた。


「信号赤だったじゃないの!しっかりなさい!!!」
「あー…、そうか。いや…香が」


いたような気がして。
言葉を最後まで口にする前に周囲を見渡すが、視線を360度変えても望む人はいない。
香が知ることがなかった新しい世界が広がるばかりだ。


(…連れて行ってくれて良かったのに)


みずみずしい緑や澄んだ青空がなんだというのだ。たった一人で季節の移ろいを感じたくなどなかった。


「僚」
「なんだよ」
「香さんは、もういないのよ」


知っている。死にたいくらいだ。
ハンマーを振りかぶって怒る相棒の姿がこんなに鮮やかに思い浮かばなければ、今すぐに幕を引いてやるのに。


(なぁ香)

(俺はちゃんと生きてるよ)

(おまぁは今、笑ってるか?)



彼女が望むならこの鮮やかな暗闇にも耐えよう。
生きる意味は、とても思い出せそうにないけれど。










*****
(タイトル参考:倖田來未/愛のうた)
冴羽さん視点のお話でした。
香さんは自分が冴羽さんを危険にさらしてると思っているけど、実際は逆なんだ、という。

 

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